私の存在意義

最近職場で、「意見を求められているようで、私の思いを求めているわけではない」と感じることが多々ある。

 

「どう思いますか?」と聞かれて

「私はこう思う」「こうした方がいいと思う」「こう感じる」と

言った場合、高確率で

「でも」「というか」「だけど」

と反論の形を取り、しかしそのあとの話は私の意見とほぼ同じであったり、

 

「私は…」と言いかけた段階で「そういえばさ!こういうときは…」と遮られたり、

 

意見を述べ終わった後に、同じ内容をその人がいっていた言葉で言い直されたりする。

 

違う意見も、同調の意見も、感想すらも、「その人の言葉で」「その人が言ってほしい、またはいっていた内容を」言わない限り

「そうだね」

とは言われない。

 

「私の言葉」を求めているのではない。

「その人の言葉」を求めているのだ。

 

「わたしという存在」を求めているのではない。

 

「その人にとって都合のいいことを言い、都合のよい方向によく気がつき、都合のいい行動をし、仕事は決してミスをしない」存在を求めているのだ。

 

なぜこんなことに気がつかなかったのだろう。

 

ひとは言いたいことしか言わないししたいことしかしない。

都合のいいひとはいい人で都合の悪いひとは悪い人だ。

 

その場でうまくやっていくなら、その人にとって都合のいいひとになるしかない。

少なくとも人間関係上は。

 

仕事の面で「これはできます」「これはこういう都合で、もしくはこの人の仕事なので、できません。」ということは必要だが、

会話の上では都合のいいひとに徹しよう。

 

その人が言ってほしいこと、してほしいことを察知できるようにしよう。

 

わたしがその場で生きていくには、それしかないのだから。